犬が眠った日

研究分野は社会学・インターネット上の表現活動。その関係の記事多し

個人主義的なWikipediaの可能性

はじめに

 以下のレポートは、「Wikipedia」の編集システムに関する思考実験である。
 Wikipediaでは、1つの項目に1ページが与えられている。そして、その1つのページ内で多数の執筆者が編集しあう形を取っている。これを「1項目単ページ方式」(集団主義的なWikipediaと呼ぶ。
 これに対して、執筆者達がそれぞれ自分専用のページ(他人は編集できないページ)を持ち、それぞれが独自の百科事典項目を作っていく方式を想定する。これを「1項目多ページ方式」(個人主義的なWikipediaと呼ぶ。「1項目多ページ方式」でも、執筆者専用のページ以外は従来と同じシステムであると考える。
 ここでは、この「1項目多ページ方式」(個人主義的なWikipedia)が実現された場合、どのような現象が起こるかを考えてみる。
 なお、どちらの方式が望ましいかの議論は関心の対象外であるので省く。

1.集団主義的なWikipediaと個人主義的なWikipediaについて

 「Wikipedia」は、誰もがその項目を作る・執筆することができるオンライン百科事典である。その開放性から、「UGC(user generated content)」の代表例としても取り上げられている。
 本レポートで注目するのは、そのWikipediaで項目が編集されるさいのシステムである。
 現在のWikipediaは、「1項目単ページ方式」(集団主義的なWikipedia)とでも呼べるシステムを取っている。そこでは、1つの項目(「自由」や「インターネット」や「日本」など)に1つだけの表示ページが与えられている。そして執筆者達は、その1つの表示ページ内だけで記述を編集し続けている。この場合、個々の執筆者の書いた文章は、他の誰かに編集される可能性が常に残される。
 この「1項目単ページ方式」に対して、「1項目多ページ方式」(個人主義的なWikipedia)が、今回考えてみたいシステムである。「1項目多ページ方式」の特徴は、執筆者専用のページ(他人は編集できないページ)が与えられ、そこで執筆者が独自の百科事典項目を作っていくことである。ただし、それ以外の特徴は従来のWikipedia(「1項目単ページ方式」)と同様である。例えば、項目は1人の執筆者がその項目を追加することで始まり、すべての文章は「GFDL」が適用される。「GFDL」の適用があるので、執筆者は他の執筆者の文書を編集したものを自分専用のページに載せることができる。その改変された文書が、また別の執筆者に改変されていくこともあるだろう。
 言うなれば、同じ「UGC」でも、前者は「皆で1つのものを作っていく」方式(一直線に進んでいく方式)であり、後者は「皆で1つもの(項目の最初に記述)から様々なものを作っていく」方式(分化していく方式)である。前者が「作品ver.1、作品ver2、作品ver3」と進む方式であり、後者が「作品A、作品B、作品C」と分化していく方式とも言える。
 それぞれの表示ページイメージを以下に描いてみた。


図 1:現時点のWikipediaでよく見られる形

図 2:「1項目多ページ方式」での最初の画面。ここのリンクから、図1のような画面に移動する

 ちなみに、「ニコニコ動画」での協同作業や、学術論文における引用という名の協同作業では、Wikipediaでの「1項目多ページ方式」と同種の方式が取られている。ニコニコ動画での協同作業は、1つの作品を皆でバージョンアップさせるというよりも、1つの作品から多くの作品を分化・結合して作っていく方式である*1。学術論文においても、研究者は引用をした上で、その研究者独自の論文を作るようになっている。
 反対に、エリック・レイモンドによれば、オープンソース活動では、協同作業において分化を抑えようとする傾向がある *2

表 1:それぞれの特徴のまとめ

個人主義的なWikipedia 集団主義的なWikipedia
一言 皆で1つものから様々なものを作っていく 皆で1つのものを作っていく
特徴 自分専用ページあり 自分専用ページ無し
類例 ニコニコ動画・学術 オープンソース

2.個人主義的なWikipediaの展開予想

 では、「1項目多ページ方式」(個人主義的なWikipedia)がもし実現された場合、どのような現象が見られるのか。以下に考えてみた。

従来のWikipediaのように(集団主義的に)使われる

 第1に、従来のWikipediaのように使われる可能性がある。例えば、自分の専用ページの百科事典項目を変更する場合は、常に一番新しく更新された記載を元に書かなければならないという規範が作られる場合である。これならば、出来上がる文章は「1項目単ページ方式」のものと変わらない。現在のWikipedia上にある「履歴」の文章が、それを書いた執筆者の専用ページに割り振られると考えてもらえばいい。Wikipediaの後に登場するものであるのだから、その慣習が引き継がれ、このようになる可能性はある。
 個人主義的なWikipediaを考えておきながら、従来どおりのWikipediaと同じように使われるのは変に思えるかもしれない。
 だが、人間は1つの技術を様々に使うことができる。例えば、掲示板である「2ちゃんねる」をチャットのように使うことも可能である。そもそも、技術的な保障はないが(他の人に自分のページを改変されるかもしれないが)、今のWikipediaを「1項目多ページ方式」で使うことも「技術的」に可能である。

1項目に対する種類の多さから、あまり資料として利用されない

 第2に、見る選択肢が多すぎて、あまり資料として利用されない可能性がある。現在のWikipediaでは、ある項目の説明はページを開いた直後に表示されるものだけを見ればすむ。これが、読むべき文書を探す苦労を減らしている。もちろん、履歴という形で多くの別バージョンの文書が存在する。だが、直後に表示されるものが基本的に一番優れた(正確な)文書となっているので、わざわざ履歴と比べる必要はない。一方「1項目多ページ方式」では、執筆者達が書いた複数ある説明文の中からわざわざ選ばなければならない。これは、読者に文書を選ぶ苦労を負わすものである。
 これを補うために、ブックマーク数、回覧数、評価点数、更新頻度、文章量などの要素で、並び替えできる機能が付く可能性はある。

編集合戦がなくなる

 第3に、「編集合戦」がなくなる可能性がある。編集合戦(1つの項目を編集をしあうこと)は、その項目について執筆者同士が異なる記述をしたい場合に起こる。
 「1項目多ページ方式」では、相手とは異なる記述をする(分化する)ことができるので、この意味での編集合戦はなくなる。

能率が落ちる

 第4に、項目作成の全体的な能率が落ちる可能性がある。理由とてしては、

  • 執筆者専用ページを設けるために利用登録をする必要性があり、その煩わしさから執筆者の数が減る
  • 一般的に広まっている記述(有名人の誕生日など)に間違いが発見された場合、「1項目単ページ方式」では訂正は1回ですむ(表示ページが1つであるので)が、「1項目多ページ方式」の場合、執筆者全員がそれぞれの専用ページの記述を訂正する必要がある。

があげられる。

項目内に、参考にすべき既存ページが生まれる

 第5に、新たに百科事典項目の文書を作るさいに、参考にすべてき既存ページが生まれる可能性がある。学術論文では、参考文献として取り上げられなければならない重要文献というのが、だいたい生まれる。Wikipediaでも、それと同様なことが起こる可能性がある。

誰が書いたかが、信頼度で重要になる

 第6に、執筆者専用ページが生まれることで、誰が書いたかが信頼性で重要になる可能性がある。
 現在でも、Wikipediaを参考文献にすることには批判がある(アスリーヌ他 2008)、(岩崎 2008:6−7)。
 それは一応置いておくとして、「Wikipediaに書いてあった」ことが重要でなくなり、「Wikipediaでこの執筆者が書いていた」ことが重要になる可能性がある。

課題・問題点

 以下は、このレポートへの課題・問題点である。本論とはずれるが、ここではニコニコ動画に対象を移した話をしている。
 私はこのレポートにおいて、「1項目単ページ方式」がコンテンツを一直線に発展させていく方式であり、「1項目多ページ方式」がコンテンツを分化させていく方式であると想定した。「コンテンツA:ver.1」から「コンテンツA:ver.2」になるのが前者であり、「コンテンツB:ver.1」になるのが後者である。
 その想定を元に、濱野氏とは異なる意見も脚注で述べた。つまり、ニコニコ動画における協同作業を「限定客観性」を持った評価基準を基に「漸次的にコンテンツ(生産物)の質が改善されてい」くものと見るのは、部分的であるという意見である。ニコニコ動画では、集団で1つのコンテンツの質を改善するのではなく、個人が様々にコンテンツを分化させるのが特質であり、そこには、集団がまとまりを持って、コンテンツがうまく発展していくために皆が従わなければならないような基準はないという意見である。
 この部分に関する課題・問題点を二つ述べる。
 まず1つ目に、濱野氏への「部分的である」という意見は妥当ではないのでは、という問題である。具体的には、濱野氏が、「第19回『初音ミク』をはじめとするニコニコ動画上のコンテンツ協働制作に関する考察」で述べているのは、ニコニコ動画全体の協同作業(「コラボレーション」)の一側面を述べたものであるかもしれない。その場合は、部分的であるのは当然である(一側面であるのだから)。実際に、「その結果製作されたコンテンツは、ユーザーの間で共有され、他のコンテンツの素材(二次創作の対象)にもなる」と、コンテンツが分化することにも言及していると思える部分もある。この部分は、もし濱野氏にお会いできる機会があれば、伺うことで確証したい。
 また、私のニコニコ動画における「分化」への注目は、Vocaloid作品で「調教」に属する作品に重きを置いていないことが根底にある(「調教」は、一直線的な進化をする創作カテゴリである)。これは、「調教」に属する作品がニコニコ動画内でリンクされることが相対的に少なく(濱崎・武田,2008)、私の目に付きにくかったという理由からだと思う。しかし、目に付かないだけで「調教」に属する作品を作る人は多い(同上)。そうすると、浜野氏の意見を部分的とするならば、私の意見はさらに部分的である。
 2つ目に、どのようなものが「一直線」と言えて、どのようなものが「分化」であるのかという問題がある。この2つは、分けることができるものなのか。また、分ける必要はあるのか。
 直感的には、分けることができるように思える。ニコニコ動画に時々見られる、まず作者が未完成作品をあげ、その後同一人物が完成作品をあげるのは一直線の流れだろう。自分が「N次創作」(濱野 2008:294)のされ方の事例として調べている「みなぎるシリーズ」のような、1つの作品から様々な作品が生まれるのは分化と言えるかもしれない。
 だが、特に「分化」関して、この様々な作品が生まれることが全体として1つの方向へ進んでいると考えることはできないだろうか。それこそ、浜野氏が言うように「それが『祭り』をもたしてくれる」方向へ進んでいるのではないか。
 また、「みなぎるリーズ」の1つである「みwなwぎwっwてwきwたwwwを滑らかにしてみた」や「みなぎる3D(仮」(動画1、2)は、元の動画から一直線の流れなのか、それとも分化なのか。前者は「中割り」を加え、後者は3Dにするという技術的に発展と取りやすい形をとっている。だが、考えようによってはその技術を使った分化とも思える。



動画1、2 :「みなぎるシリーズ」の2作品

 そして、この二つを区別することで「UGC」という現象の中から何か新しい知見を得ることができるのか。人間は物事を区別することに「わかった」という感覚を得るという(山鳥 2002)。そうすると、このレポートは、ただ「1項目単ページ方式」(集団主義)、「1項目多ページ方式」(個人主義)という区別をしたことで感じる「わかった」感覚に酔っているだけで、有益な発見ではないのではないか。
 これらの課題・問題点以外にも、穴が多数見つけられると思う。今後はそれらを解消していきたい。

参考文献

レポートファイルのダウンロード

個人主義的なWikipedia.pdf - Windows Live

*1: この意味で、私は、濱野智史氏が述べるニコニコ動画での「コラボレーション」観とは異なる見方をしている。浜野氏は、「[http://wiredvision.jp/blog/hamano/200711/200711011100.html:title=第19回『初音ミク』をはじめとするニコニコ動画上のコンテンツ協働制作に関する考察]」(同趣旨の文書として『アーキテクチャの生態系』〔p247−56〕)において、「Vocaloid」を中心事例としながら、ニコニコ動画で行われているコラボレーションは、ニコニコ動画独自の「限定客観性」を持った評価基準を基にして、「漸次的にコンテンツ(生産物)の質が改善されてい」くものとしている。もともとこの意見は、事典やソフトウェアのようなわかりやすいな評価基準がない音楽や映像で、どうして協働開発が機能しているのかという問いから出発している。
  だが、ニコニコ動画の特質であるは、Wikipediaのような集団でコンテンツの質を徐々に改善することではなく、個々人が1つのコンテンツを膨大に分化させ、様々な種類の派生コンテンツを作ることである、と私は考える。そのため、人々がある特定の方向へ向かうことを目指した評価基準はない。質の改善を目指すコンテンツ分野はニコニコ動画にも確かに存在するが、濱野氏の意見は部分的であると考える。

*2:「[http://cruel.org/freeware/noosphere.html:title=ノウアスフィアの開墾]」を参照。