犬が眠った日

研究分野は社会学・インターネット上の表現活動。その関係の記事多し

【研究計画書A】インターネット上の限界芸術におけるコミュニティの機能――アスキーアートを事例として

この文章は、5月7日に発表した第2研究計画書です。ABの二つがあります。
もし、意見がありましたら、よろしくお願いいたします。

1.修士論文アウトライン

題名:インターネット上の限界芸術におけるコミュニティの機能――アスキーアートを事例として

  • 序章
    • 問題の背景
    • 「問題提起・主張」の概要
      • 問題設定:インターネット上の限界芸術にコミュニティはどのように関わっているのか
      • 問題の重要性
      • 主張:コミュニティは、限界芸術の源である
    • 各章の流れ
  • 第1章 限界芸術論の先行研究
    • (1)「限界芸術」の始まりと展開
    • (2)ネットにおける「限界芸術」論
    • (3)第1章まとめ
  • 第2章 インターネットにおける表現活動
    • (1)インターネット上の表現活動一般の遍歴
    • (2)インターネット上の表現活動がどう見られてきたか
    • (3)アスキーアートの遍歴
    • (4)第2章まとめ
  • 第3章 主張・論証・結論
    • (1)ネットにおけるコミュニティの先行研究
    • (2)インタビュー調査からの分析
    • (3)限界芸術でのコミュニティの役割に関する主張
    • (4)結論

2.問題意識

 2009年現在、インターネット上における表現活動はその初期より容易になっている。ネットワークを構築するサーバー・クライアント・回線が発達し、それらを使うさいの経済的敷居も低くなった。さらにHTML言語を学習し、FTPソフトウェアでサーバーにアップロードする必要があった時期から、HTML言語を学ばずともWebブラウザーのみでインターネット上で表現活動を行える時期となった。
 このような状況の中で、アマチュアと規定される創作者に注目が集まっている。最近で言えば、2004〜6年頃のティム・オライリーの「web2.0」(佐藤 2006)や梅田望夫の「総表現社会」(梅田 2006)はそれを象徴する言葉であった。もっとも、現在(2009年)これらの言葉自体は陳腐化しているきらいはある。だが、動画共有サイトSNS・ブログで、日々、人々は動画やイラスト・文章を発表している。「Web2.0」や「総表現社会」という言葉の流行り廃りとは関係なく、アマチュアと規定される人々の表現活動は続いていくだろう。
 このようなアマチュアの勃興に対して、本論文ではその中でのコミュニティの役割・機能がどうなっているのか分析していく。コミュニティに注目するのは、インターネットでの表現活動が、個々人がバラバラになって行われるものではないからである。彼・彼女らは協働作業の中で作品を作っている。卒業論文において事例とした、アスキーアートフリーソフトウェア・オープンソフトウェアでも、創作者個人だけではなくコミュニティがそこには存在していた。
 具値的な分析方法は、まず、このようなアマチュアによる創作活動を鶴見俊輔が1960年代に提唱した「限界芸術」の一つとして捕らえる。これによって、場合によっては流行追い的になってしまう研究を、過去の研究と地続きなものにする。次に、卒業論文で研究事例としたアスキーアートをふたたび採用し、そこからコミュニティの特性を探る。アスキーアートパソコン通信の時代から現在まで続くネットワーク上での表現活動であり、コミュニティの中で生まれてきたものである。歴史の長さという意味でも、適した事例である。最後に、これらを社会心理学の見地から分析し、コミュニティの役割・機能を述べる。
 そして、結論としてコミュニティが創作活動の源となっていることを主張する。

3.限界芸術について

 「限界芸術(Marginal Art)」は、鶴見俊輔が提唱した芸術の3分類の一つである。他に、「純粋芸術(Pure Art)」、「大衆芸術(Popular Art)」の二つが提唱されている。鶴見が述べるそれぞれの定義は以下の通りである。

「純粋芸術」
「今日の用語法で『芸術』と呼ばれている作品」(鶴見1999:14)
「専門芸術家によって作られ、それぞれの専門種目の作品の系列にたいして親しみをもつ専門的享受者をもつ」(同上)
「大衆芸術」
「純粋芸術にくらべると俗悪なもの、非芸術的なもの、ニセモノ芸術と考えられる作品」(同上)
「大衆芸術は、これもまた専門的芸術家によってつくられはするが、制作過程はむしろ企業家と専門的芸術家の合作の形をとり、その享受者としては大衆を持つ」(同上:14-15)
「限界芸術」
「両者(引用者:「純粋芸術」と「大衆芸術」)よりさらに広大な領域で芸術と生活との境界線に当たる作品」(同上:14)
「非専門的芸術家によってつくられ、非専門的享受者によって享受される」(同上:15)

 ここにおける「非専門的芸術家」は、アマチュア・消費者・ユーザー・素人・受け手と規定される人々であり、「専門的芸術家」は、プロフェッショナル・生産者・玄人・送り手と規定される人々という理解でいいだろう。また、純粋芸術・大衆芸術・限界芸術はそれぞれ、「ハイカルチャー」・「メインカルチャー」・「サブカルチャー」に対応していると考える。

作り手 受けて
純粋芸術 専門的芸術家 専門的享受者
大衆芸術 専門的芸術家・企業 非専門的享受者
限界芸術 非専門的芸術家 非専門的享受者

表 2 芸術の3区分の作り手・受け手
 これらの区分は、それぞれが孤立しているわけではない。限界芸術は大衆芸術・純粋芸術の源であり、大衆芸術・純粋芸術が限界芸術におりていくこともある。また、「純粋芸術・大衆芸術を成長させるもとの力としての限界芸術を育てる場所がサークルだという事情」(鶴見1999:258)という風に、サークル(コミュニティ)の重要性を述べている。
 鶴見俊輔が「限界芸術」を始めて述べたのは、1956年1月1日付けの読売新聞上での座談会である(鶴見 1996)。1960年に『講座・現代芸術』にて、まとまった「限界芸術」に関する文書が書かれている(ただし、未完。単行本化は1967年)。

4.インターネットの限界芸術

 インターネット上の表現活動と限界芸術を結びつけた先行研究としては、

  • 伊津信之介,1997,「情報文化を育む広域ネットワーク」』情報文化学会『情報文化学会全国大会講演予稿集』,43-46.
  • 水越伸,2002,『新版デジタル・メディア社会』岩波書店.
  • 長谷川一,2007,「アマチュアの擁護――デジタル時代の限界芸術論」『明治学院大学 芸術学研究』

の3つがある。ここでは、もっとも限界芸術が集中して書かれている長谷川の論を取り出してみる。
 長谷川が問いとしているのは、デジタルメディアにおけるアマチュア表現者の存在を理解するための枠組みとして、「限界芸術論」から何を取り出せるのか、である。
 この問いに対して長谷川は、「限界芸術論」における「経験」(「かかわり方」)へ視点を述べている*1。より具体的には、経験として存在する芸術への「参加の仕方」と、参加度合いの違いによって起こった「専門主義」のという視点の二つを取り出している。
 次に、長谷川はこの視点を基点に、イギリスのBBCが行った「キャプチャー・ウェールズ」という一般市民が自身の写真などを組み合わせて映像作品を作るプロジェクトを事例として見ている。そこでは、プロジェクトにおいてプロや市民の関わり方はどのようなものであったか、限界芸術における尺度を作るのに必要なものは何であるかを述べている。そして最後に、このプロジェクトが「アマチュア性の再構築」*2を目指したものだと主張している。

5.限界芸術への意見

 これらに関して、現時点の私の意見を述べる。
 長谷川は、論文において「だれもかれもが表現し発信することが称揚され、それがビジネスに包接ていく。昨今の流行語で言えば『Web 2.0』など、この典型例である」としている。
 この現状把握に足して、私は賛同する。現在のブログ、動画共有サイトなどは企業がビジネスとして運営するものであり、いわば企業は人々の表現する欲望を駆り立てることで利益を出している。
 だが、論文ではこの部分に関して軽い言及に留まり、企業と消費者の共感関係で作品が作られていくことへの深い言及がない。BBCの事例も、どちらかといえば公共政策の側面が強い。これでは、人々の表現活動の大きな部分が抜けたままであり、言及が必要だと考える。

参考文献

課題

  • 全体として、具体的にどのような分析をしていくかが未決定。
  • 「これらを社会心理学の見地から分析し」とあるが、社会心理学のどの理論を使って分析するかが書かれていない。取ってつけた言葉。
  • アスキーアート」を分析することが、どう社会を分析することになるのか分からない。アスキーアートの説明がない。
  • 「限界芸術」の説明が不十分。
    • 鶴見さんの限界芸術をまずしっかりとまとめる。

この文章のダウンロード

第2研究計画書A.pdf - Windows Live

*1:鶴見は芸術の3類型を論じる前に、芸術それ自体について論じている。鶴見は、「芸術とは美的経験を直接的につくりだす記号」としている。この「美的経験」とは、広い意味でば「直接価値的経験(それ自身において価値のある経験)」のことである。鶴見によれば、「食事をする」という経験も直接価値的経験にあたり、生きるという経験全体が直接価値的経験と潜在的に言えるとしている。その一方で、直接的価値経験の中でも何かしらの尺度が存在することによって「美的経験として高まってゆく経験」を「狭い意味での美的経験としている」

*2:ここで長谷川が述べるアマチュア性は、素人らしさのことではない。長谷川はアマチュアと素人の語源を下敷きに、「『アマチュア』とは、何かの事項について、深い愛情を注ぐことをいうのだ。この場合の愛情とは、当該領域に関する知識と技芸をもち、それを実践しながら、しかしそれを生計維持へと結びつけることを直接思考していないことを意味している」とし、「それ自体(「プロ」と「素人」:引用者注)が持つある性質のことをいうのだ」としている。そして、アマチュア性がプロと素人を「政治経済的文脈」とは異なる水準から「媒介する機能をはたす」としている。
 抽象的な記述なので理解しにくいが、コミックマーケットニコニコ動画で(つまり、生計維持である商業雑誌などとは別の場で)プロの人々が作品を発表し、素人の人々が関係するのが、アマチュア性が発揮されているという理解でいいのだろうか