犬が眠った日

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ミクFES'09(夏)レポート2―僕が舞台上に見た初音ミクは、何なのか

前編:ミクFES'09(夏)レポート―僕が舞台上に見た初音ミクは、何なのか - 犬が眠った日

はじめに

 このレポートでは、次の二つを書く。

  1. 着ぐるみを着た人間をあえて「ミッキー」と思うように、観客は透明スクリーンに映った3DCGの初音ミクに対して、何かをあえて思ったのか(初音ミクの仮想性)
  2. マクロスプラス』のシャロン・アップル初音ミクの違い

この二つのテーマは、野尻抱介氏(id:nojiri_h)の「ミクFES'09のこと - 野尻blog」を参考にしている。

 もし前回からの続きとするならば、各出演者の様子を書くのが本筋だ。でも、私には描写力がない。自分に絵画の説明をさせたら、左から右へ上から下へ、各部分をそれぞれ説明しかねない。

 そのかわり、私は「僕が舞台上に見た初音ミクは、何なのか」なんていう評論か論文かよく分からないもの書くのが好きだ。だからそれを書きたいと思う。

「ミクFES’09(夏)」の注目点

 ミクFESでは、注目点が数多くあった。今回のレポートと関係あるものとしては、以下の5点がある。なお、下の引用部分は、私のライブ中のメモを元にしている。そのため、話し手が発した言葉の正確な引用ではない。そのことには、注意をしてほしい。

  1. ライブ開催の直前に流れた初音ミクのアニメ。アニメでは、初音ミクが舞台袖で緊張しており、手のひらに人の文字を書く姿が映し出された(その後に、意を決して初音ミクが舞台に出る描写があったように思う。しかし、記憶があやふやな部分である)。
  2. 鶴田加茂(ika)氏とMOSAIC.WAV(み〜こ氏と柏森進氏)の出番において、み〜こ氏が発した次の言葉。「(柏森氏が発した「初音ミクで演奏」という言葉への訂正として)歌ってくれたんだよ」。この言葉は、笑いも誘った。
  3. 「supercell」の曲が終わったあとの、透明スクリーン上に映し出された3D初音ミク。その3D初音ミクは、演者側を向いてお辞儀をした。
  4. 司会の松嶋初音氏が発した次の言葉。「(初音ミクに対して、観客を含む全体で「ハッピーバースデートゥーユー」が歌われた後。初音ミクの顔が)冷静な顔ですけれども、喜んでいる」。2と同じように、笑いを誘った。
  5. ライブ終了後、新木場駅に向かう途中で聞いた次の言葉。声の主は、ライブに友人達と来ていたと思われる男性。「リアルいいわー。二次元最高」

初音ミクの仮想性

何をあえて思うか

 ディズニーランドにいるミッキーは、着ぐるみを着た人間である。しかしディズニーランド内では、従業員や観客があえてその人間を「ミッキーという生物」と思ったうえで営業し、楽しんでいる。観客が抱きつくのは、着ぐるみを着た人間ではなく、「ミッキーという生物」だ。とりあえず、現実とは別の何かをあえて想定するこの行動を「仮定」と呼ぼう。
 では、あのライブ会場内において、観客は透明スクリーンに映った3DCGに対して何かを仮定したのか。
 「初音ミクという人間」という仮定だろうか。その可能性は大いにあると思う。だが、正直これは今も悩んでいるところであるが、私は別の仮定が行われたと主張したい(「初音ミクという人間」と仮定している方はいると思う。それはどう考えることなのかコメントいただけると嬉しいです)。
 私が主張するのは、「人格の存在する、バーチャルな初音ミク」という仮定が行われた、というものである。初音ミクは「人間」ではなく、「バーチャル」と思われていた。これは、「透明スクリーンに映った3DCG」という現実をそのまま認識したのとそう変わらない。この部分には仮定がなかったとも言っていい。初音ミクは、生身の人間とあえて思われて、舞台上に存在したわけではないということだ。

 では、そこに何の仮定もなかったのか。いや、「人格」の仮定がそこでは行われていた。「『ミクFES’09(夏)』の注目点」の1と3は、演出側が初音ミクの人格描写を観客側に伝えるものだ。1のアニメは、緊張する初音ミクを見せることで直接的に伝えた。3も、お辞儀という意味を持つ動作を観客に見せることで、初音ミクの人格を観客側に伝えている*1。2、3は、初音ミクの人格を(その一方で、笑いの視点が見えることからも、「あえて」であることが分かる)仮定するための発言である。み〜こ氏は初音ミクの自主性を、初音氏は初音ミクの感情を仮定した。一方で、4の発言からは、初音ミクが生身の人間ではなく、バーチャルな存在(2次元)として受け止められていることが分かる。
 「スタートレックヴォイジャー」における緊急用医療ホログラムのドクター、「宇宙船レッド・ドワーフ号」のリマー、そして、「マクロスプラス」のシャロン・アップルのような存在が、そこでは仮定されていた。
 「舞台上に見た初音ミクは、何なのか?」という問いに対して、「それは、人格の存在する、バーチャルな初音ミクだ」が私の答えである(id:sad_smiLey3氏の「それぞれの「初音ミク」のイメージに思うこと」への自分の考えの意味を込めて)。

初音ミクライブの今後

 今後の展開(冬のライブも予定されているという)として気になるのは、ライブにおける初音ミクの人格演出である。自分は、初音ミクの人格を指摘したが、その少なさも気にかかった。ライブにおいて、曲の繋ぎで初音ミクが消えずに残ったのは、supercellの一回限りであった。初音ミクは、踊りが終わったら消えてしまうものだった。デPの場合は、初音ミクの姿そのもののが消えてしまった*2。テレビや映画の演出で、アニメのキャラクターと実写の人間が話す場面がある*3。そのような演出も、今回のライブでは少なかったように感じた。
 このような初音ミク人格の少なさの変わりに強く感じたのは、演者達の存在である。演者はお互いに話をし、自分の出番のときは常に舞台上におり、観客側に声をかけた*4
 もちろん、先に人格の例として挙げた以外にも、初音ミクの喋りであったり、観客側のダンスを促す初音ミクの動きであったり、「ハッピーバースデートゥーユー」後の初音ミクのおじぎがあった。
 多い少ないは私の主観でしかないが、それでも初音ミクが人格を持つような演出をより多くできたのではないか(多くすべきだ・少なくすべきだという、べき論の意見を持っているわけではない。そうありえたのではないか、という意見である)。
 初音ミクと演者の関係を極端に言えば、演者重視の場合、透明スクリーンに映った3DCGの初音ミクは、演者達のライブを盛り上げるための映像演出となる。逆に初音ミクの存在を極端化すれば、演者達は初音ミクのバックバンドのような存在になる。もっとも、実際のライブはそれらが混ざり合う複雑なものだった。

 ブームの内側から見てみればもはやミクを主体とする必然性はどんどん薄れてしまっている。それぞれのプロデューサーや歌い手のファンへと細分化されていって、やがてVocaloidという文化圏からもゆっくりと離れていってしまう。そんな予感もある。だからこそ、今、「初音ミクライブ」なのかな、という気もしています。
(中略)
 初音ミクという存在そのものには決して手が届かないからこそ、ミクFesのようなイベントで誰もがイメージし得る初音ミクという像を継承していくことも必要なんじゃないかな、なんてことも思ったりもします。

蜃気楼の向こうの初音ミク - 未来私考bookmark

id:iGiGir氏はこう述べていたけれども、「初音ミクライブ」における初音ミクと演者の立ち位置は、まだ分からないというのが自分の実感です。

22時ごろ

 会場を出ると外は暗くなっていた。雨は降っておらず、風も強くなかった。
 敷地内を出ようとすると、他の観客の方が上の方の写真を撮っているのに気がつく。どうやら看板を取っているらしい。綺麗だったので自分も撮る。

シャロン・アップル初音ミクの違い

 「ミクFES’09(夏)」のあと、『マクロスプラス』に登場するバーチャルアイドルであるシャロン・アップル初音ミクの関連を論じる文章を多く見た。
 その「マクロスプラス」において、興味深いシーンがある。主人公のチームメイトの技術者(ハッカー)であるヤン・ノイマンが、バーチャルアイドルであるシャロン・アップルのデータをネット越しに盗もうとする場面だ。マクロスプラスの世界において、シャロン・アップルは一部の人に独占されたものであり、「盗む」という行為が成立する存在であるらしい。
 一方の初音ミクはどうなんだろう。
 私の見立てでは、部分的には当てはまるが、部分的には違う。
 今回のライブでの3DCG初音ミクは、セガの3Dモデルが元になっているという。セガはその3Dモデルのソースを一般に公開しないだろうから、それこそ「マクロスプラス」のように、セガのコンピュータにクラッキングして、その3Dモデルを「盗む」行為が成立しそうだ。
 でも一方で、初音ミクの3Dモデルを作ることは、一般の人々にも許可されている。ヤン・ノイマンだって作れるわけだ(絶対、作ってそうだ)。そして、より重要なことは、その独自に作られた初音ミクも本物の初音ミクの一つと受け入れられる実情があるということだ。そこにあるのは、本物・偽者の基準ではなく、出来・不出来の基準である。
 プラトンに「イデア」という言葉がある。

プラトン(紀元前427-347世紀)は、人間が認識するあらゆる存在には、認識の際の原型となるべき理想的な形があると考え、それを『イデア』とよんだ。(中略)プラトンによるとイデアは時空を超えた永遠の真の実在であり、現実の具体的なものは全てのイデアの模造である

MD現代文・小論文 (MDシリーズ)

 これを援用すると、シャロン・アップルの場合はイデアが一つのものに固定されがちなのに対して、初音ミクはその固定がかなり弱くなっていると言える。これが、シャロン・アップル初音ミクの違いなのではないか。

 ただ、私はKEI氏の描く初音ミクは、他の初音ミクとは別の価値があると思う立場である。だから、ややこしいのだが、それはいつか別のレポートでまとめたい。

*1:初音ミクのお辞儀は、演者側を意識して行われたものではない。ライブ中の演者の話(申し訳ないが、誰かは忘れてしまった)によると、光の関係上、演者側の位置では、初音ミクの映像を見ることができない。見ることができたとしても、360度の映像でない限り、観客に向かってお辞儀する、左右が逆転した初音ミクが見えるだけだろう。あの初音ミクのお辞儀は、「演者に対してお辞儀をする初音ミク」という光景を観客側に見せるために行われたものである

*2:曲の最初は確認していないが、中盤・後半に初音ミクがまったく出ていないのは確認している。この場合の初音ミクとは、透明スクリーンの3DCGだけでなく、会場前方の左右の上方にあったディスプレイに映る初音ミクも含んでいる。[http://ascii.jp/elem/000/000/456/456009/:title=ASCII.jp:初音ミクが歌って踊る! ミクフェス '09(夏)レポート]の記事によると、やはり初音ミクは登場していないようだ

*3:自分の記憶に残っているのは、実写の藤子・F・不二雄氏とアニメのドラえもんが話す映像である。

*4:kz氏は、演奏中に話をしなかった。DJという存在は、音楽文化の中でまた別の存在なのだろうか。