文化発展のための著作権はいらない
初めに
著作権法第一条には、著作権法の目的として次のように書かれています。
第一条 この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする。
「著作権法の目的は、文化を発展させることである」。そう条文には書かれています。
私自身も、著作権法の目的は「文化発展」であり、これを目的として著作権法は存在すべきだと考えていました。
しかし、最近は逆の考えが浮かんでいます。つまり、著作権に「文化発展」という目的はいらないのではないか。逆に、「文化発展」という目的は、著作権法がどうあるべきかを分かりにくくしているのではないか。
このように思うようになったのは、二つの理由からです。一つ目に、最近の国の政策を見て。二つ目に、「文化発展」という言葉の曖昧さからです。
国の政策
現在日本政府が行っている「知的財産推進計画」は、「失われた10年」と言われる90年代の不況に端を発しています。この不況を解決する方法の一つとして、アメリカが先に行っていたプロパテント政策(特許重視政策・知的財産権重視政策)を日本も取ろうと始められたのが「知的財産推薦計画」です。
その中で著作物(コンテンツ)は、「産業」という地位を与えられました。アニメや映画、漫画は、日本にお金をもたらしてくれる存在になったのです。
もちろん、一連*1の「知的財産推進計画」を見て行けば、「文化の発展」や「文化の創造」という言葉が出てきます。そもそも、コンテンツが産業として発展することは、文化として発達することに、大部分がつながると思います。
しかし、それでも著作権に文化の発達だけでなく、産業の発達という役割がかされたのは間違いない。法を離れて、現実の世界で著作権の目的は変化しつつあります。*2
「文化発展」という曖昧なもの
「文化発展」という言葉は、曖昧な言葉です。「何があったら、文化は発展していると言えるのか?」という問題に、100人100通りの答えがあると思います。今の世界は、著作権が無かった時代と比べて文化的に発展したと言えるのか?(もしくは、劣っていると言えるのか?)という問題に、明確な答えを出すことができるとは思えません。
このような曖昧な基準点では、著作権がどうあるべきかの議論に一生答えは出ない。この部分を考えると、「文化の発展」という目的は、著作権法がどうあるべきかの議論を混乱させる役割しかないと思います。
では、何を基準点に持ってくるべきか
日本経済新聞に書かれていた小塚荘一郎氏の意見の受け売り*3になりますが、何か一つの基準点からその行為が正しいかどうかを判断するのではなく、供給者(権利者)側と需要者(消費者)側の、自由な契約によって決められるべきだと思います。*4
「文化の発展」という視点は捨てて、配給者側の利益と需要者側の利益がかみ合うところに落ち着かせる、それが一番問題の出ない方法であると思うようになりました。*5
*2:もっとも、もともと著作権法は出版社が利益を確保するために作られた部分が大きいらしく、もとに戻ったとも言えます。
*3:あと、岡本薫氏の「著作権の考え方 (岩波新書)」からも。
*4:小塚氏の文章にも書かれていますが、もちろん「正常な競争原理」が働いた上で。
*5:津田大介氏:「EMIは打つ手がなかった」――DRMフリー化と「CCCD」という無駄 そして日本は (1/5) - ITmedia NEWSの事件が好例だと思います。消費者とEMIの利益のかみ合いの結果、DMR無しになりました。